良い本だった。
「年寄りが生きる極意」は、「自然と身体がベース」で、「人工的はおまけ」。
これを押さえることが肝要ってことが理解できた。
最近、音声入力できる「Simeji(シメジ)」ってソフトを入手した。
必要な個所を読み上げると、あんがい正確にテキスト化してくれる。
だから、音声を認識➡文字として入力し、以下のようにポイントをまとめてみた。
あたり前だ、といえばそれまでなんだけど、
私は、この理解をベースに老後を生きてゆくつもりです。
<老後をいかに生きるか…結論>
「生きているだけで楽しい」は、年寄りにとって盤石の土台。
楽しいということを実感し、納得できることは、年寄りが生きる極意だという気がする。
老後をどうして生きたらいいかという時に、趣味を持て、人脈を広げておこう、安全な資産運用をしよう、エンディングノートを書こう、墓はどうせよ、家族との関係はこうせよ、といろいろなことが言われる。週刊現代と週刊ポストなど、読者の親父たちがじじいになって、そんな活力もなくなり、今では両誌も健康や死に焦点を絞ってきた。
そんな時に、そんな心配など無用ですよというのが、この「生きているだけで楽しい」という生き方である。この実感は、何かをしなければならないといった強迫観念から自由にしてくれるのである。無理やり「生きていること自体が楽しい」と思い込むのではなく、腹の底から納得できるのなら、この実感は生活や人生のベースにあって、まさに怖いものなし、最強不動のベースであると思う。
生きているってこと、それだけで素晴らしい。
「生きているだけで楽しい」。これは、楽しくてしょうがないということではない。
生きていることはいいことと同じ意味である。
「生きていることはいい」そう気づいたきっかけは…
私は定年後の最初の数年間、街の公園に行くことを覚えた。そこでただ缶コーヒーを飲み、タバコを吸い、本を読むだけなのに、なぜか気に入り何時間も過ごした。
毎日、その公園に行くことが楽しみになりさえしたのだが、今思えばその時間は「生きていることはいい」、「楽しいという感覚と近い」ところにいたのではないかという気がする。
「楽しさを感じる感覚」と…近いもの
その感覚をもう少し拡張すれば、例えば、心地いい風や木漏れ日、真っ赤な夕日や虫の音に、「生きていることの楽しさ」を感じるという感覚になる。
咲き乱れる花、ひっそりと咲く花や、しとしとと降る小雨などに感覚が生き生きと対応することができれば、ごく自然に「生きていることはいいことだ」と実感することができる。
このように感じることができるなら、年寄りにとってはこの上もなくいいことである。
何か楽しいことはないか、やりがいのあることはないか、どうやって生きたらいいか、
などと考えたり焦ったりすることは、もはや一切必要なくなるからである。
それは「年寄り独特の感覚」かもしれない
というのも、生きる理由の最低限のこと、「生きているだけで楽しい」が満たされているのだから。
これは多少なりとも、死を意識するようになる年寄り独特の感覚かもしれない。
60歳前にそんなことを考えることなどあり得なかった。
「ただ生きているだけで楽しい」ということは、無理に「楽しいこと」を作らなくても、それ以前の、日々のとるに足りない当たり前のこと、つまり(生きる元素)みたいなことがあるだけでいいのである。
「生きる元素」は「自然」と「身体」
(生きる元素)には、(自然元素)と(身体元素)がある。これらは最低限のことである。
それに対して「人工的な(楽しいこと)」がある。もちろん(生きる元素)それだけでもいいのだが、やはりいささか物足りないであろう。その上に何を築いていくかは人それぞれである。
「自然元素」とは
生きる元素としての(自然元素)は、夕日、虹、花、風など…である。
自然元素に人間が美しさや心地よさを覚えるのは世界共通である。
そう思ったのは、単純に死の世界を思い浮かべて、それとの比較で生の世界を見た結果である。
死を意識したとき、それまで全く気にも留めなかった山の緑が、(不思議なほどの鮮やかさで)目に映るのである。つまり、風景(自然が)、全く違った様子を見せる。生き生きと輝いて見えるのである。死の側から生の側を見たとき、それらの何でもない青空、白い雲、香る風、花、月、星、雨、霧などの(自然元素)が、一気に精彩を帯びてくるのである。
「身体元素」とは
もう一つある。
生きているということは、以下の点である。
・呼吸をしている
・手足が動く
・目が見える
・聞こえる
・話せる
・触れる
・飲食ができる
これを(身体元素)と呼びたい。この元素は、自然元素や言葉元素の前に必須である。
ひどい風邪が治った時、長期の入院から退院できた時など、心から「なんだかんだ言っても、やはり健康が一番だな」と思わなかった人はいないはずである。こういう体験なら私たち全員も知っている。歯の痛みが消えた時、吐き気が収まった時、また口内炎が治った時ですら、私たちは「あー、痛みがないということはなんて幸せなんだろう」と思う。
しかし、何事も喉元過ぎればで、私たちはその都度、そんな思いを忘れてきたのである。
太陽の光が降り注ぐだけで、なんて暖かいんだろう、なんて綺麗なんだろう、なんて美しいんだろうという感覚は本当だと思う。ただ、手を動かすことができて、歩くことができて、食べることができることが、こんなにも嬉しい。「生きてるだけで十分」ということはあり得るのだ。
息をしていること、見える、聞こえる、歩ける、食べられることなどの(身体元素)
その時に感じる心身の浮遊感を、とりあえず「楽しい」と言ってみるのである。
「生きているだけで楽しい」と感じることができるためには、少なくとも
① 歩くことができる、食べることができるという健 康
② 普通の暮らしができる程度のお 金
は必要であろう。
「人工的な楽しい」こと
私はもちろん、人工的な楽しいことを否定しているのではない。
飲み会、コンサート、バーベキュー、海外旅行、ディズニーランドばかりではなく、昆虫採集、鉄道模型、切手収集をしている人もいる。人工的な(楽しいこと)はそれぞれ見つければいいし、人々はそうしているのである。
だが、それらがいかに大掛かりで刺激的に見えようとも、あくまでも(自然元素)、いや(身体元素)のおまけみたいなものである。
第7章の最後の項目は、「なんと幸運な人生」
ただ「生きているだけで楽しい」の大前提は、21世紀のつかの間の現在の日本という、ごく限られた平和な場所と時間の中の、私という身体空間が誰からも何からも侵されることなく生きてこられたからと言えることである。戦争をはじめとする争い。人間が人間に対してやってきたことを考えると、否応のない実感である。
私たちの多くは、切り殺されることもなく、切腹を命じられることもなく、スパイ容疑で銃殺されることもなく、捕虜になって拷問にかけられることもなく、爆弾で殺されることもなく、特攻隊に行かされることもなく、暴漢に襲われることもなく、大地震にも、洪水にも、火事にも遭うことがなく、重篤な病に侵されることもなく、飢餓に苦しむこともなく、無事な人生を送ることができた。
まだ私の人生は終わったわけではない。しかしもうここまでで、なんと幸運な人生だったことかという思いがする。それなのに世間はまた人生100年とかアンチエイジングとか贅沢なことを言っている。私のこの先はどうなるかわからない。早すぎる総括をして、ちょっと勇み足だったなとなっても、それはそれで仕方がない。
できることならこのまま最後まで平穏な時間が続いてくれるとありがたいとは思うが、もう自分のことはいいという気がする。それよりも気になるのは、今後数10年間を生きていく私たちの子供たちや孫たちのことだ。相当厳しい世界になっていく気がする。強く、懸命に生きていってくれと願うしかない。
おわり
オマケ
なぜか突然、フランス?


