0929 ブリンカーを外して、原美術館を観た (1)

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外したことから見えるモノ

かつて私は、美術館や展覧会に行ったときには展示してある「作品」だけに関心があった。だが、制作・発表しなくなってからは、しだいに作品以外にも関心が向くようになった。それまでは仕事柄、作品だけを見ることに集中していたものが、周囲を見渡すだけのユトリが出てきたようだ。 以前の私はブリンカーをつけた状態だったと思った。

[ブリンカー]とは、 競走馬の目を覆い視野を狭める馬具の一種 。 遮眼革(しゃがんかく)とも呼ばれる。馬の意識を競走や調教に集中させ、周囲からの影響に惑わされずに走らせるために用いられる。

退職した今の私は「ブリンカーが外れたってことだろう…な」と思う。
閉館が決まった原美術館を、そうした眼で観たときに、「建物」や 「人」をはじめ、周囲の環境や過去の経緯・歴史など、 いろいろなことに関心が向いた。
そうした広い視野で観た時には、同じものでもこれまでとは違ったモノが見えてきた。

城南五山の御殿山

東京の城南地区にある高台5ヶ所を総称して「城南五山」と呼ぶ。山手線の内側、目黒駅から品川駅にかけての地域で、花房山・池田山・島津山・八つ山・御殿山の5つのエリア。江戸時代からそれぞれ由緒ある大名屋敷や大名出身の邸宅があり、古くから落ち着いた高級住宅街として知られる。広い敷地にゆったりと建つ低層の高級マンションや立派な門構えの一戸建て住宅が多く見られる。

大豪邸の「開東閣」

品川駅の高輪口を出て北品川方面へ7、8分歩くと城南五山のひとつ「八つ山」と呼ばれるエリアに。歩道の右手には高さ4~5mの石垣が延々と続いている。やがてうっそうとした森に囲まれた謎の洋館の正面入口に至る。入り口には「開東閣」とある。入り口からは建物がまったく見えない。ここが品川駅近くとは思えない広大な敷地だ。
この敷地は元は伊藤博文の屋敷だった。それを三菱財閥の岩崎彌之助が購入し、明治41年にイギリス人建築家コンドルの設計で煉瓦造りの重厚な大邸宅を建てた。現在は三菱グループの迎賓館として使われている。

「御殿山」の由来

八つ山「開東閣」の森の広さに圧倒された後、その南側にそびえる「トラストタワー」と「東京マリオットホテル」へと至る。ここが「御殿山」エリアで 原美術館がある。 この地は高級マンションが立ち並ぶ住宅街。「御殿山」という住所はいまは存在していないのだがこの地域の施設やマンションの名前などに使用されることが多い。

江戸城を最初に築城したのは太田道灌。彼がこの地に居城を構え居住していたとの記録がある。それから140年後、徳川家康が鷹場用の仮御殿を築いた。それが「御殿山」の由来だそうな。今では御殿の遺構は残されておらず石碑や解説板もない。現在この地には、ホテル・オフィス・レジデンスから成る複合施設「御殿山トラストシティ」と約2000坪の御殿山庭園がある。

変わり果てた御殿山

品川駅から歩くと御殿山一帯は高台で、かつては山といえるような場所であったことが想像できる。4代将軍・徳川家綱の時代に吉野の桜が移植され桜の名所となり、広重の 東都名所 「御殿山花盛」では、多くの町民が丘の桜を愛でながら品川湊を見下ろす姿が描かれている。

広重は 、こうしたのどかな花見風景に対して「名所江戸百景 (下左図) 」で、地層がむき出しの殺風景な崖の上に満開の桜を小さく描いた

変わり果てた桜の名所を見た広重は嘆き、名所江戸百景にはあえて崖側の眺めを、悲しみながら描いたと伝わる一枚だ。 御殿山が何でこんな姿になってしまったのか。

台場土取場としての御殿山

この痛々しい崖が出来てしまったのは1853(嘉永6)年のペリー率いる黒船が浦賀に来航したことによる。幕府は、黒船を撃退する目的で 江戸湾を埋め立てて 砲台を造った。 品川台場(御殿山下御砲台場)の埋め立て工事の際に、御殿山を土砂の採掘場とし斜面を切り崩した。それによって崖と手前の窪地が出現してしまったというわけだ。
結局、台場に設置された 6つの台場(砲台) は一度も実戦で使われぬまま放置された。この無用の長物のために由緒ある山が無残にも破壊され、何百本もの桜も伐採されてしまった。これには広重もさぞ悲観しただろう、めずらしく時事性のあるリアルな作品だ。

台場は6つあったが 現在は第三台場と第六台場だけが残された。 第三台場(台場公園) は「ゆりかもめ」の 「お台場海浜公園」を降りた ところにある(第六台場は無人島)。 その後明治5年に 品川から横浜まで鉄道を通す際には、JR、京急の線路がゴッソリと山を削って線路を敷いて現在に至っている。

つづく

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