町家が残る美観地区
「ぶっかけうどん」を食べてから観光の中心「美観地区」へ向かう。
アーケードのある「えびす通り」は地元住民のための商店街。多くの街では商店街が寂れてシャッター街になってるがここの商店街は健在だった。途中から「本町通り商店街」となり観光地風の商店が多くなる。ここには中二階平入りのきれいな町並みが残っている。一階の軒が揃っていて、壁面は焼き杉やナマコ壁。通りの奥にも蔵があるのがいっぱい見えて電柱も地中化されていた。次第に観光地の雰囲気が高まってくる。これだけの心地よい町家が残っているのは、JRが町家地区の北側を通り500mはずれた位置に倉敷駅が置かれたからだという。戦争時の空襲も無く。そのおかげで江戸期の町並みが残ったわけだ。
大原美術館
古い町並みの中に突然現れる古代ローマ風ファサードの「大原美術館」に12時20分頃ついた。時間指定のため入場は12時45分と書かれた用紙を渡され20分ほど運河沿いの街並みを歩いてから入場した。
大原美術館は、コロナのため空調設備の入れ替えなどで4/11から4ヶ月間臨時休館していた。8/25日に4ヶ月半ぶりに再開したのだが、その後の入場制限として15分ごとに10人程度の入館とした。一日の入館者は最大300名で昨年の3分の1。だから館内には観客がほとんど見られずとてもすいている。これほどまで入場者を制限する必要があるのか?、 とはいえとっても贅沢な鑑賞だった。
こじんまりした建物の割に絵画の展示室はおもったより広い。でもとっても暗い。展示されてる作品はさすがにレベルが高いが数が少なかった。分館が閉鎖中で入れなかったこともあり収蔵作品の多くを見られなかったからかも知れない。
絵画に比べると工芸の展示品が多い。
民芸運動期の濱田庄司、河井寛次郎、リーチがいっぱい、とりわけ濱田庄司室は圧倒的な存在感があった。先日、日本橋三越で今年の「伝統工芸展」を見たけれど、そこで見た陶芸作品とは相当レベルがちがっていた。 濱田庄司のやきものは渋くてバランスがとれている。やっぱり凄いものだ! 東京の日本民藝館は大原孫三郎が昭和10年頃おこなった寄付によって作られたという。おどろくべき見識の人だったな。
睡蓮の池があった。小ぶりの花が二つ三つ咲いていた。通りかかったおねーさんに声をかけたら「この睡蓮はジベルニーから持ってきたものですよ」ってすごく自慢げだった。ここの睡蓮の花は5月~11月まで次々とず~っと咲くという。睡蓮がそんなに長く開花することを初めて知った。
その後「倉敷民芸館」へ。期待して入ったのだが、内容・展示方法ともによくなかった。これで1000円はいただけない。せっかく蔵が連なった素敵な建物なのだから残念だった。それから、町家カフェ「三宅商店」で昼食代わりにパフェを食べた。とっても雰囲気が良かったな。
倉敷はド級の観光地だ
かつての旅行ブームの頃、ディスカバーJAPAN(昭和46年)やan・anとnon-noなどのファッション雑誌によって、従来の観光地とは異なる洒落た場所に女性客が訪れるようになった。その頃から日本を見直そうという風潮が生まれ、古い町並みが観光資源になることから保存しようという動きが出た。当時は「倉敷」の名をよく耳にしたが近頃はあまり聞かなかった。しかし行ってみて 思った。「倉敷はド級の観光地だ」
鎌倉の小町通りや由布院の湯の坪街道には、みやげもの屋やテイクアウトフードの店が立ちならび軽薄だ。それに比べると倉敷は本物の歴史的建築がいっぱい残っていて奥が深い。たしかに、倉敷の重要伝統的建造物群保存地区(伝建地区)を一歩出ればフツーに生活している今風の街になってしまう。でもこれだけの規模できちんと残された町並みはスゴク立派だ。
今回残念だったのは「旧中国銀行倉敷本町出張所」が改修中で建物の上部しか見られなかったこと。そして「児島虎次郎記念館」が閉館してたことだった。「旧中国銀行…」はル・コルビュジエを最初に日本へ紹介し、アール・デコ様式を持ち込んだ薬師寺主計の設計。円柱やステンドグラスを持ち内部装飾も素晴らしく美しいらしい。2022年4月にオープン後には閉館した「児島虎次郎記念館」の収蔵品が展示され「新児島館」になる。
今回見逃した「倉紡記念館」と「新児島館」を観るだけでも、いつかもう一度倉敷へは行ってみたいと思った。
≪世のために描く光と夢 ~大原孫三郎と児島虎次郎の絆~≫ 46分https://www.youtube.com/watch?v=6LjFJbWbyoY
≪美しい経済人 大原總一郎≫44分
https://www.youtube.com/watch?v=_otq7_F1pvM
しかし、この半端な運河は何なんだ?
「倉敷」という地名は、 年貢米を輸送のために集めておく倉庫が建ち並んだ「蔵屋敷の地」に由来するそうな。この運河は、かつてはその物資を船で瀬戸内海へ運び出す大動脈だったという。現在の運河=倉敷川は幅10メートル程だが、船による物資輸送がなされていた頃には川幅20メートル程あったとされる。 ところで、大原美術館の前で終わっている「運河?」はどうみても「堀」のようにしか見えない。 Google Mapを見るかぎり、これが運河なのか川なのか堀なのか、さっぱり分からない。 ここから瀬戸内海へ船で行けたというのだが、どうしたらそんなことができたのか?不思議だった。
なんと倉敷はかつて海だった!
そういえば昨年、ブラタモリで見た地図を思いだした。中国地方最大の平野である現在の岡山平野はかつては「吉備の穴海」と呼ばれる浅瀬だっだ。 東西50km、南北は広いところで20km、面積ははぼ琵琶湖に匹敵する。 大掛かりな干拓は戦国時代から始まった。 江戸時代はじめに「児島」は陸続きの「児島半島」となり 、終戦直後から食糧増産対策として国営事業となり、1963(昭和38年)最後の干拓が完成して現在のようになったという。なんという大規模な干拓工事か。
干拓によって、 倉敷は東に向かう倉敷川によってのみ児島湾と結ばれる、内陸の川港となったわけだ。現在の倉敷の町並みからは、この町が長年かけて海に向かって干拓や埋立を繰り返してきたなどと、覗い知ることはとうてい出来ないな。
ワインを試飲した
早足で「アイビースクエアー」をチラッと覗いた。
売店にマスカット・オブ・アレキサンドリアワインが並んでいた。一本が3500円以上のものばかり。「エッ高いな」って言ったら、おねーさんが答えた。「一本に二房もマスカットを使ってるんですよ~」「あの…さ、試飲は無いの?」って言ってみた。「できますよ」と、小さな試飲カップに注いでくれた。私は、ひと口なめて「うっつ、ま…」、つい不味いって言いそうになった。奥さんにも回してなめてもらった。「…」無言。
いい顔してないのを見ておねーさん「もう少し甘口のはどうですか?」、それを舐めて「この方が少し香りがあるかな…」って言うのが精一杯だった。たしかに赤ワインと較べて白ワインは難しいのは分かるのだが、どうにもお気にめさなかった。あのワインはいったい何なんだ…?
16時少し前、倉敷の美観地区からバスに乗り、瀬戸内の海に面した「児島」へ向かった。
つづく