「いっちゃん」の鉄板で、お好み焼きを食べた
すこし前のTV番組に「コロナ巣ごもり自宅メニュー開発」があった。その中で広島風お好み焼きの紹介で「いっちゃん」の店主が作り方を実演していた。
よ~し、広島へ行ったら「いっちゃん」へ行ってみようと思った。
広島駅北口の「ekie Dining」に「廣島ぶちうま通り」ができた。ここは2018/3月に広島駅の改装に伴い北口にオープンしたもの。おかげで、以前は激しくつまらないと言われた広島駅が、観光客にはご当地グルメが選びやすいようになり、楽しい駅ビルになったと言われる。
さて3日目は、朝一番にタクシーで岡山市内観光をした。それから新幹線に乗り、昼すこし前に広島へ着いた。さっそくお好み焼きを食べに向かった。
「廣島ぶちうま通り」には店舗が6店、そのうち4店がお好み焼きだ。
「麗ちゃん」「いっちゃん」「みっちゃん総本店」「福ちゃん」が並んでた。
一番人気は「みっちゃん」で長い行列だ。他の店はパラパラ。
私たちは「いっちゃん」のネーさんに尋ねた。
「鉄板前の席で食べられないかな~」
< 少し待ってもらえば空きますよ >
5分ほど待ってから希望した鉄板前に座れた。だから待ってる間に広島風の焼き方を、目の前でじっくり観察することができた。
クレープよりも薄~い生地にタップリのキャベツをのせて少し蒸す、それにバラ肉をのせてフタしてさらに蒸す。それから焼きソバ焼き、卵を焼いてそれらを全部重ねて粉海苔を振りかける。4人ほどの焼き手が、目の前で次から次へと焼いていく。う~ん、見てるだけで楽しかった。
私はベーシックな「そば肉玉」770円を食べた。けっこうなボリュームで、後でキャベツが少々胃に持たれたな。
ところで、いろんなものを積み重ねてとろりとしたソースをかける現在の広島風のお好み焼きは 「みっちゃん総本店」 に始まるそうな。私が食べた「いっちゃん」はそこから別れた店だ。「…ちゃん」がつく店名が多いのは、戦死や被爆死した未亡人によるお好み焼き屋のなごりだとか。当時は手に入りやすかったアメリカの小麦粉と安いキャベツを使って始まったそうな。
広島の市電はスゴくてダサかった
広島駅前から原爆ドームへは市電でいくことにしていた。
市電乗り場は駅前のとっても分かりやすい位置にあり表示も明瞭だった。しばらく待っていたら「えっ! えらくカッコイイ車両だ」。一両が長めでしかも2量連結の おどろくほどスマート 車両が静かにやってきた。
私の市電イメージは、地味な色の古臭い一両だけの車両、それが左右にガタガタ揺れながら…そんなものだった。広島市内を運行する路面電車は「広島電鉄」。広島は「路面電車王国」といわれることを後で知った。 長いのや短いの新しいのや古いのなど、いろんな車両がまじっているそうだ。ステップも低く乗りやすい、席の配置もデザインも地下鉄のようにスマート。なにより走行音が静かだ。「市電もここまで進化したんだな!」いたく感心した。
市電は広島市街の中心部を通っていた。広島という街は思っていたより大きな街だった。 市電は 大きなビルの通りをゆっくりと進む。しか~し、スピードがあまりに遅い。 広島駅前から原爆ドーム 前までは2.5kmほど。交差点の信号で停止するとなかなか動かない。17~8分かかったろうか、見かけはスタイリシュなんだけど、動きは異様にノロノロだった。 短気な私はイライラして思った。「やっぱり市電は市電だな!」
見たくなかった原爆ドームだったけど…
私は気弱な人間だから広島の爆心地へ行くことが怖くてイヤだった。
できれば原爆ドームは見たく無かった。嫌だなイヤだなと思いながら市電を降りた。市電の「原爆ドーム前駅」を降りたら、すぐ目の前にそれがあった。
「えっ、補修中なの?」
原爆ドームは、思いもよらず足場に取り囲まれていた。私はどこか気が抜けてしまった。
戦後70年たてば風雨等による劣化が進み倒壊のおそれがある。ふつうのビルでも劣化は進む。原爆ドームはなおさらだ。昭和42年度(1967年度)に最初の保存工事を行い、その後3度の保存工事を経て今回が4回目。今回、 広島市は指名競争入札を実施したが1、2回目は応札がゼロ。3回目は清水建設の1社だけが札を入れたが、予定価格を超えていたため辞退。それを乗り越えての補修工事だった。
そんな現実を知ると、「原爆ドームは見たく無い」とか言ってちゃイカンなと思った。今後は相当の寄付金を集めなきゃ補修工事も出来なくなるだろう。思いを新たにした。
雨の中の、平和記念公園
大粒の雨がパラパラと降り注ぐ中、原爆ドームから元安橋を渡る。
「原爆の子の像」の前に傘の花が開いた集団が見えた。小学生らしい集まりが説明を聞いている。意味不明のパブリック彫刻と比較して、こうした深いメッセージが込められた彫刻こそが本来の役割を果たしているのだと思う。
その脇を通り「平和の鐘」へ。それから平和広場を通り「広島平和記念資料館」へ向かった。あちらこちらに傘の花が見える。
広島平和記念資料館
「広島平和記念資料館」は「原爆資料館」とも称する。
1955年に開館当初の広島平和記念資料館は現在の「本館」(下写真の上)のみだった。ただし設計者の丹下健三の当初のプランでは、東・西の館を空中回廊で結んで3棟一体の建築とするよう計画されていた。
資料館は平和大通りから原爆ドームへの視線を遮らないよう、コンクリート打ちっ放しのピロティにより空中に浮かせる形とされた。 建築物の 1 階を使わず、柱だけが立つピロティなんて、目的もよくわからないし経済的ではない。そんな批判があったという。
資料館のピロティは造形的に優れている以前に、グラウンドレベルで景観軸を通すという重要な機能を持つ。 資料館は平和大通りから原爆ドームへの視線を遮らない。原爆ドームに向かう景観軸を定め、その軸上に慰霊碑を、後方にゲートとしての資料館を計画した。
当時、原爆ドームは取り壊し案があり残るかどうかもわからなかった。その 原爆ドーム をシンボリックなものと位置付けたのは、コンペ案では丹下だけだったという。 原爆ドームはその後も撤去と保存の間で揺れ動き、 正式に保存が決まったのは1960 年代に入ってからだった。
丹下健三といえば、 日本の伝統とモダニズムを融合させた初期代表作 香川県庁舎 東館(1958 )をはじめ、 東京カテドラル聖マリア大聖堂 ( 1962 ) 、 国立代々木競技場第一・第二体育館 ( 1964 ) 東京都庁舎 ( 1991 ) フジテレビ本社ビル ( 1996 ) など、教会から海外の大規模プロジェクトまでのそうそうたる設計で知られている。
丹下健三が残した名言の中でも突出して有名なのが 「美しいもののみ機能的である」という言葉。 求められた機能を真面目に充たそうと心がければ、余分な要素が削り落とされ、自ずと美しくなるという機能主義的な発想がここにはある。 安藤忠雄氏とは反対のベクトルだな。
これまでの私にとって丹下健三氏は、あまりのモニュメンタリ性と超人性ゆえに受け入れがたいところがあった。しかし今回、 平和記念公園を「平和を創りだす工場にしたい」と願い、驚くような奥深いビジョンを秘めた設計を創出したことを知った。 彼はたんに壮大さを見せつけるだけじゃなく、実は人間らしい思いやりや優しさを秘めた人だったのだと考え直した。
■ 知られざる丹下健三──海外プロジェクト・都市計画を中心に https://www.10plus1.jp/monthly/2013/09/issue1.php
岡山と広島はタクシーで 観光した
今回の旅行のメインは倉敷・直島・宮島だったから岡山と広島は通過地だった。でも少しは見ておこうと市内をタクシーで回った。「城」と「県庁」と「美術館」をつなぐ道順を観光地図に書き込んで「こんな感じで回ってくれるかな」ってタクシーの運ちゃんに渡した (下地図の赤点線) 。
運ちゃんはけっこう親切に説明しながら走行してくれた。タクシー代は岡山が2,800円、広島が1,800円だった。いずれもGOTOチケットが使えたからとっても効率的だった。
広島駅からはJR山陽本線で宮島口へ、そこからJR航路で宮島へ向かった。
つづく
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