0811 信州(3)安曇野から松本市内へ

上高地・軽井沢旅行

高原リゾート信州旅行(3)

三日目は、松本駅前でレンタカーを借りて安曇野へ向かった。わさび田と碌山美術館を見て松本市内へ戻る。松本城などを周って18:40発のあずさ52号に乗車した。

大王わさび園は広かった

安曇野の名産品といえば、「ソバ」と「わさび」だ。
安曇野市はわさびの生産量が日本一。「大王わさび農場」は世界最大(15ha)のわさび田をもち、敷地内を自由に散策できる観光地としても良く知られている。年間120万人もが訪れるそうだ。
とんでもなく「広い!」
歩いた道は下図の赤線部分。この距離をゆっくり歩くだけでも30分近くかかった。とにかく広い「わさび農場」だった

3台の水車小屋       夏場は日よけのシートが…

広い農場を散策しながら、ワサビ田が見えるように散策路が整備されている。
日よけの寒冷紗シートが直射日光を避けるため覆っているからワサビは見えない。シート下を覗くときれいな畝に緑色のワサビが生育していた。ワサビは冷たい湧水で育つから場所が限定されるし成長も遅いから収穫までに2年ほどかかるそうだ。チューブ入りの西洋わさびと違って値段が高いのも頷ける。

売店には驚くほど多様な「ワサビ加工品」が並べられていた。
各種「わさび漬」や「わさび漬物」はもちろん、わさび風味のオリジナルお菓子類が一杯ある。「わさびまんじゅう」「わさびかりんとう」「わさび入りらっきょう」、そして「わさびオイルソース」「わさびのスモークチキンハム」など。何でもかんでもワサビ味で頭がクラクラした。
私は「ワサビ丼」を食べたかったのだが、まだ時間が早いからここで食べるわけにはいかない。帰宅後に自作しようと、売店で一本500円の「生ワサビ」をお土産に買った。

散策路からは、わさび田と北アルプスが一望できた。
季節によって変化する山並みに取り巻かれてるなんて「う~む、なんてステキな光景だ!」と思ったが、ここに住んでる人々にしてみれば、当たり前でなにも感じないんだろうな。

さて、「大王わさび」とは、まことに勇ましい。強そうなイメージだから「大王」と付けたのだろうと思ったが…違った。「大王農場」の名前は、あづみ野に古くから伝わる「八面大王」伝説にもとづく意味あるネーミングだった。簡単に紹介しておきたい。

 < その昔安曇野の民を苦しめる八面大王を、東の蝦夷を征伐にいく途中の坂上田村麻呂という将軍が、33ふしの山鳥の尾羽で作った矢で討ったんじゃ。
八面大王を伐った坂上田村麿は魔力で八面大王が生き帰ることをおそれて体を切リきざんで埋めたんじゃ。大王の耳を埋めた所が有明の耳塚。足を埋めた所が…、首を埋めたのが…。胴体を埋めたのが御法田のわさび畑、別名大王農場といわれているんじゃ… >

(*)八面大王と穂高の地名 http://www.ultraman.gr.

大王わさび園から碌山美術館まで農道を約3Km走った。その間ほとんど車がいない。とってものどかな田園地帯だった。

「碌山美術館」は街中にあった

碌山美術館」は、北アルプス連山の麓、安曇野・穂高町にある。
そう聞くと何となくのどかな山裾に立つようなイメージだ。ところが実は穂高町の街中にあった。
しかもすぐ脇をJRが走り遮断器付きの踏切がある。道を隔てて120台収容の広い無料駐車場があるのだが車がひっきりなしに往来する。入り口を目の前にしながらも横断するのが大変だった。
う~ん、だいぶイメージが違ってたな。

レンガ造りの「碌山館」?

敷地内の展示棟の中で最も良く知られているのが1958年に最初に建てられた「碌山館」
ここには碌山の彫刻を中心に書簡等が展示してあった。
この建物は、小さな村のロマネスク教会を思わせる控えめな佇まい。小規模ながらも高く尖がった銅板葺きの三角屋根と、正面と背面を飾るステンドグラスの円窓を持つ。

蔦で、煉瓦の壁一面が覆われているのが特徴的。「教会風」なのは、碌山が青年期にキリスト教に傾倒していたことから教会の聖堂をイメージして設計された。
建物の外部は、全面が煉瓦。使われている煉瓦は、焼き過ぎや色や形の不揃いな煉瓦を使ってあるため、色も形もバラバラ。それが壁面に深い味わいを与えている。

ところが「碌山館」の中に入って驚いた。
内部まで全てレンガ造りと思いきや、内部はRC=鉄筋コンクリート造りだった。蛍光灯も吊り下げてありとっても現代的。「あれ~イメージと違うな~」と思った。

内部は鉄筋コンクリート

この部屋だけが写真撮影可だった

広さは無いが碌山の彫刻作品数は少ないから、このくらいのスペースで十分なのだろう。開放感がありとても明るい展示室だ、フラットな天井ではなく山形になっているからだろう。丸窓には可愛らしいステンドグラスがある。予算がなかったので油絵具で彩色したということだ。

30万人の寄付で作られたって

これまで私は、安曇野に「碌山美術館」という個人の美術館が有ること。そして碌山の著名な作品ぐらいは知ってたが経歴などはあまり知らなかった。
碌山が30歳で亡くなったのは1910年。彼の作品はその後、家族が生家に建てた「碌山館」で展示・公開してきた。1953年になり、荻原守衛の人と芸術を一層広く伝えるため「荻原碌山研究委員会が立ち上がり、1958年に「碌山美術館」が建設された。
場所は、旧穂高町が寄付した旧穂高中学校(現穂高東中学校)の敷地の一部。建設資金は29万9千100余名の寄付と県と町の補助金だった。そんな「碌山館」建設の経緯について今回初めて知り、ちょっと感激したので以下に紹介。

「碌山館」建設は、萩原碌山の作品を地元に残そうと考えた学校の先生たちの努力から始まった。作品の巡回展を行い、長野県内のすべての小中学校、高等学校の生徒たちの、5円、10円の寄付金をもとに作られた。地元の青年たちの労力奉仕をはじめ、多くの人々の協力で出来上がった。

(*)碌山美術館について 碌山館の建設記録映像あり

ところで、本名は萩原守衛なのだが「なぜ碌山なのか?」
これは、夏目漱石の小説「二百十日」から来ているそうだ。荻原はこの小説を読んで感動し、友人と面白がって「碌さん」、「圭さん」という二人の登場人物の名前で呼び合っていた。 それが「碌山」となり、いつしか荻原の号になったということだ。なんとなくイイカゲンで微笑ましい。

建物スタイルはバラバラだ

上記写真の建物名と建設年は下記のよう。
・碌山館1958 ・第一展示棟1982 ・第ニ展示棟1996
・休憩室1968 ・
杜江館(もりえかん)2008 ・受付

第一展示棟では、荻原碌山と関係の深い芸術家たち、高村光太郎、戸張孤雁、中原悌二郎らの作品も併せて展示。第二展示棟は企画展示用、現在は「荻原守衛のパリ時代」開催中、杜江館1階では荻原守衛の油彩、デッサン、スケッチを展示している。

それにしてもこれらの建物はバラバラでまったく統一感がない。おそらくマスタープランなしで次々に増築したのだろう。しかし逆に、この「バラバラ感」はローカルの地に建てられた個人美術館として結果的に「イイ味出してる」と思った。

お昼はソバを…

長野県は日本一のソバ県だ。
「安曇野へ行ったらソバ食うぞ!」そう考えて事前にネットでソバ屋を探した。
安曇野のソバ屋の書き込みを読んでいくと、いずれのソバ屋も高評価と低評価とが混雑していてサッパリ判断し兼ねた。しかも共通してるのは「高い(ザル千円)」「少ない」「遅い」そして「観光客相手で地元民は行かないよ」ってことだった。

昨年、軽井沢へ行った際にネットで一番高評価の店で食べた。店の前には行列ができており期待できたのだが、ところがギッチョン「美味くなかった」。それ以来、ネットの書き込みは信じちゃいかん、イイカゲンだって疑うようになった。
だからここは一つ思い切った!「ソバ、やめよう」

出雲大社で美味いソバを食べたことだし、ソバ屋だけのために車で10分も走って残念な思いするのはいやだ。そう考えて松本郊外の音楽堂内に移転したばかりのおしゃれ店「ソバガレット」を食べたのだった。

松本市内は大渋滞

午後、松本市内にもどって市内観光した。松本市内は予想してた以上の「都会」だった。落ち着いた中都市の町並みで「ほ~、松本ってスゴイんだ!」って最初は感心した。
でも問題なのは「渋滞」だった。

前日、上高地から戻ってタクシーで市内観光した際のこと、「松本城をひと回りして…」と駅前から乗車した。だが最初の左折までの300mぐらいの間、渋滞でさっぱり進まない。運ちゃんが言った。「松本市内は渋滞がひどいんですよ。だから松本走りって言われて…」

城下町の「松本走り」

「松本走り」とは危ないご当地ルールのことだった。簡単にいえば 
・直進している対向車が接近中にもかかわらず右折する。
・対向車が左折する隙を見て、ほぼ同時に右折する。

「上図:右」は、堀のある城下町の頃の地図を現在地図に重ねたもの。城下町であった松本市は細い道の交差点や一方通行路が多く右折車で渋滞することが多い。右折がなかなかできないから、無理をしてでも右折するようになったという。
(*)松本の渋滞や道路の状況
(*)危ない「ご当地」ローカル運転ルール大全

レンタカーを運転していても渋滞の酷さは痛感した。
まったく進まない!交差点でなかなか右折できない! こりゃ酷い!幾度もそう思った。でも、右折しようと先頭で待ってたら前方の直進車から「道を譲るパッシング」されたから右折できた。短い運転中に3度もそれがあったから松本の人は優しいんだなって奥さんに言ったりしてた。でも、後で調べたら「松本走り」しない車への配慮ってわけだったろう。

松本市長が「松本走りを止めて!」そう訴えたところ、「そんなこと言ってる暇あれば【道】直せ」って反撃されたそう。そりゃそうだ。

有名どころへ、いちおう行った

渋滞だらけの松本市内だったけれど頑張って運転し、有名どころへたどり着いた。「旧開智学校」(写真左)は耐震工事のため休館中。「あがたの森公園」には、旧制松本高等学校のレトロなパステルグリーンの木造校舎が残る心地よい公園だった。

松本市には「なわて通り」と「中町通りの2つの商店街がある。
「なわて通り」は昭和レトロな景観や街並みを残している。「中町通り(上写真2枚)」は数度の大火をきっかけに、なまこ壁の蔵造りが増え「蔵の街」になったもの。
工芸品好きの奥さんに連れられて「中町通り」へ行った。ここには民芸・工芸などの店が集結していた。単なる土産物じゃないまともな工芸品を扱っていて好感がもてた。
(*)中町商店街振興組合 公式サイト

「松本にはどんな企業があるの?」って、タクシー運ちゃんに尋ねたところ「大企業は無いんですよ。そうですね~松本は商業の街かな!」だった。
国交省の経済分析でも、< 松本市は、国宝松本城を擁する城下町として栄え、「商都松本」と称された、中南信地方の中心商業地として大きな商業集積を形成しており…、蔵のまち中町街、縄手通り整備などにより個性ある商店街が形成されている >とされている。
(*)国交省:地方都市のケーススタディ1(松本市)


日本の「都市力」ランキング2020(森記念財団都市戦略研究所)によると、主要109都市のなかで松本市はなんと2年連続で全国10位。これは「経済・ビジネス」「生活・居住」など6分野の合計83指標を点数化し、その合計点をランキングにしたもの。凄いじゃないか、松本市!

信州大学は松本にある。入学者の7割が県外者なそうだ。そして卒業生の多くが「松本は第二の故郷」って言うらしい。それほど暮らしやすい街のようだ。私も半日しかいなかったけど「住んでも良いかな」って思える街だった。でも、あの渋滞がある限り「絶対に住みたく無い」な!

松本城は20分待ち

「尾張名古屋は城でもつ」とは良く言われるが、城址がある街は日本全国どこも「城」が街の中心だ。観光や経済はもちろん、城はなにより住民のプライドそのものだ。「松本城」は豪壮で美しかった。松本市民にとって松本城は街の宝物に違いない。

観光の中心だけあり平時なら本丸入場に100分待ちなんだって。
私が行ったときは20分待ちだった。ところで、前回旅行の「松江城」では入場者が数名で寂しすぎるくらいだった。しかし、ここでは何と入場待ちだ。山陰と関東近県の旅行者パワーの違いを感じたな。
私は以前「松江城」に登上したから、もう「松本城」に登りたいとは思わなかった。城の周りを一巡りしたら十分だった。というよりも、正直言ってもう私は、お城には飽きちゃったんだな!

ガラスキ「あずさ」で帰った

松本には食べたい駅弁が無かった。だから夕食用には有名どころのパンを買ってガラスキあずさ52号に乗った。やさいパンが旨かった。
どこに行っても人が少ないから、とっても楽だった。
コロナが明けたら、こんなに快適な旅行は出来ないだろうなと、しみじみ思った。
いやー楽しかった!

「軽井沢」へは手軽に行けるからこれからも行くかも知れない。でも「上高地」へは、松本からが行きにくいからおそらく二度と行くことは無いだろうと思った。

今、旅行から戻って3週間が経った。
行程をまとめたり写真を整理したり、ボチボチやってきたけれど
これもまた、旅行の楽しい一部なんだろう。

さ~て、退職して以降いろんな所へ旅行した。
九州・山陽・軽井沢・山陰、そして今回の信州へと。
これらの旅行費用には、退職金転がしで稼いだ額を中心に、特別定額給付金10万円✗2やGo-To半額補助などを使ったものだった。今回旅行まででそれらを使い切った。

「これから当分は、まともな旅行は無いからねっ!」
そういうことだから、私としてはひと安心だ。

おわり

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