奥さんが言った。
「昨日は、あんなところへ連れていってゴメンね」
「あんなところ」ってのは、箱根・宮ノ下の「堂ヶ島渓谷」のことだ。
昨日は二人で「堂ヶ島渓谷遊歩道」別名「チェンバレンの散歩道」を歩いた。奥さんが行きたいと言うから私もお付き合いしたのだった。しかし、そこは「遊歩道」とは名ばかりの結構ハードなトレッキングコースで、とっても疲れた。
帰宅後に調べてみると、箱根の堂ヶ島は過去に「スゴイ謎旅館」があった場所だった。「そうか、あの迷路はそういう所だったのか!」と、後になって感動した。疲れたけれども普通の旅行では得られない体験ができた。
まずは案内所に
箱根登山鉄道「宮ノ下」駅前で昼食すませ、駅から急坂を降りたところの「観光案内所」に立ち寄った。奥で読書している暇そうなオバちゃんに声をかけた。
「あの~堂ヶ島渓谷の入り口を知りたいんだけど」
そう言ったらオバちゃん、顔を上げて一瞬なぜか固まった。
「ン、どうかしたかな…?」
オバちゃん、マスクをかけながらが近づいて来て言った。
「ン~ッ…渓谷へ行きたいの?… 大変だよ。」
真剣そうな面持ちでそう言った。
引き留めオバちゃん
「けっこう時間かかるよ、大丈夫?」
「はい。」
「一時間以上かかるけど大丈夫?」
「はい。」
「森の中で足場が悪いからタイヘンだよ」
「はい。」
さらに腕を上下させながら言った。
「登ったり下ったりするんだよ。タイヘンだよ」
「…?」
鈍感な私にも、やっとオバちゃんが懸命に引き留めようとしてることに気づいた。
「はい、そのつもりで来たから」
私がそう言うとオバちゃん、やっと説得をあきらめて「説明モード」へ入った。
「そうッ…、あ、地図持ってるね。それで説明するから…」
「この先に案内板があるから…、ここを下って、その先はトタン板に囲まれてるけど平気だから進んで…、出口はこのあたりで… 国道に出るから。」と、赤ペンで記入しながら丁寧に説明してくれた。
看板がデカすぎて…
郵便局のすぐ先に看板があると聞いた。地図によるとそこから右下へ下る道があるはずだ。
案内板が見当たらないので、私がうろたえていたら、
「この道で良いんだよ」奥さん、道を選んで勝手に進んで行った。
「おいおい、まだ案内板が無いじゃないか」
私がそう言うと奥さんが言った。
「あるよ。よ~く見てみな」
あった。「デカッ!…」
看板が「デカすぎて」私には「案内看板」とは思えなかった。私は、道案内板などは小さめのものだと思い込んでいた。しかもその一部は張り紙で隠れていたし…。
急坂を下ると謎の迷路が
すぐに坂道は車が通れないほど狭くなった。ところどころに階段がある中を右に左に折れ曲がりながら降りていく。「観光客の皆様へ、町道通行可能です」という案内板が、これでもかっていうほど頻繁に設置してある。6分ほど下ると、正面にこげ茶色に塗られた塀が現れた。
「はは~これが、例のトタン板か。」どうやら工事現場のようだ。張り紙が幾つもあり「早川渓谷遊歩道→」と書かれた張り紙もある。「堂ヶ島渓谷遊歩道」のつもりだったから少々混乱した。
さらに進むと道の両側がトタン板に囲まれて折れ曲がってるから、まるで迷路のようになった。トタン板には「立ち入り禁止」と「町道通行可能→」が交互に貼ってある。なんじゃこりゃ~!
トタン板迷路の中を2分半歩いたら橋に着いた。ホ~これが「夢窓橋」か。川床には大きな岩がゴロゴロころがりなにやら凄い様相だった。「夢窓橋」は、室町時代の臨済宗の禅僧の夢窓疎石の山居がこの近くにあったで、この名がついたそうな。
さて、ここからが「渓谷遊歩道」の本番だった
夢窓橋を渡るとリッパな階段がある、だがそれを上ると突如荒れ果てた道になった。あまり手入れされていないから足場が物凄く悪い。道が半分崩れてるから崖から落ちそう。
案内所のオバちゃんが言ったとおりだった。傾いた路面をたどりながら登って下りまた登って…ひ~ひ~、は~は~言いながら歩いた。この渓谷遊歩道の別名は「チェンバレンの散歩道」ということだった。明治時代に日本に30年住んだイギリスの日本研究家の”バジル・チェンバレン”がよく歩いた道ということで名づけられたそうなのだが、当時はもっと険しかったろう。よくも歩いたものだと思うよ。
入り口は川岸だったがすぐに川から離れて山の中を上り下りした。途中には東京電力の施設や発電所らしきものがあるのだが説明板も無いからどういう施設かは良く分からなかった。約30分歩いてやっと河岸へ降りた。上流にはつり橋と堰堤を落ちる豪快な滝が見えた。
眼下には「早川」が流れる。この川は芦ノ湖から唯一流れ出る川だそうな。少し青みがかった水に手を入れてみると冷たくない。さすがにあたりが温泉地だけある。
つり橋は重量制限大人3人とある。少し踏み出すとユラ~っと揺れた。
「オ、お~っ!」なかなかスリリングだった。
渓流の水の色や堰堤から流れ落ちる水音、そして木々の紅葉。
日本の秋だなって思った。
大変だったけど、来たかいがあったな!って思った。
堂ヶ島に迷旅館があったそうな
さて、渓谷入口のデカい看板の横に、もう一枚ヘンな看板があった。雨水に晒されて下半分が白らっちゃけているが、ゴンドラらしきものが見えた。後で調べてみると、この渓谷にはロープーエーやケーブルカーを使って行く旅館があったということだった。
何と面白い旅館なんだろう。
現在もあったならば日帰り入浴に是非とも行ってみたいものだと思った。
以下に、旅行記のようなものを紹介しておく。
■ 堂ケ島温泉 「晴遊閣 大和屋ホテル」 〔 Pick Up温泉 〕
https://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/85184f498717a1846d929fb91b78952a
・宮ノ下から堂ヶ島渓谷遊歩道、太閤石風呂通りへ
http://machimori.main.jp/details9203.html
・晴遊閣大和屋ホテル 夢のゴンドラ
http://www.hetima.net/blog/archives/7935
■ 堂ヶ島温泉 「対星館」〔 Pick Up温泉 〕
https://blog.goo.ne.jp/akizzz1/e/265c4c423b8debff022a495c1d058903
・箱根・堂ヶ島温泉 「対星館」
http://www.taiseikan.co.jp/about/
今は亡き「堂ヶ島温泉」とは?
ところで、箱根が温泉地として一般に知られるようになった江戸時代、湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮之下・底倉・木賀・芦之湯の温泉場が「箱根七湯」として湯治客を集めてにぎわっていたということだ。堂ヶ島温泉は、天龍寺や西芳寺の禅庭を造り枯山水の完成者とされる夢想疎石が開いたと伝えられている。しかし山の中なのに、なぜ「堂ヶ島温泉」って呼ばれるのか、そしてなぜ今は宿が一軒も無くなってしまったのか?
箱根七湯を紹介する案内書「箱根七湯の枝折(しおり)1811年」に、<「堂ヶ島は究って凹なる所にて早川三方を遮り其さま少しく島のかたちをなせり」>とある。温泉場が島のように見えるためだと考えられている。またその文献によると、江戸時代後期の堂ヶ島温泉には 5 軒の湯宿(奈良屋、大和屋、近江屋、丸屋、江戸屋)があり、温泉は <「大滝小滝穴の湯杯とてさまさまの名湯あり大滝は少しあつく小滝はさほとにもなし就中穴の湯というは・・・岩穴にて其間より温泉湧出るなり」> と記載されている。その湯宿の一つが、現代まで続いた「大和屋ホテル」だったかも知れない。
幻旅館はいずこへ
「対星館」「大和屋ホテル」は、いずれも予想外にリッパな温泉宿だったようだ。
ところが、2013年9月突然営業終了のお知らせが貼られた。その内容は2013年に3年のリノベーションを経て2016年にリニューアルする予定で一時閉館するとの内容だった。
しかしながら、その後は解体工事を済ませた時点で工事ストップ。通路の両側をトタン板で囲ったままで現在に至っている。
どうやら「大和屋ホテル」と「対星館」は、ともに「リゾートトラストのエクシブ箱根離宮」に買収されたようだ。上の地図(左:20年前、右:現在)を見ると谷底の二つの旅館は消滅し、あらたに国道わきにゴムボートのようなフォルムの3つの大きな「エクシブ箱根離宮」が建っているのがわかる。
エクシブ=「XIV」とはローマ数字で「14」。ここは各施設の客室1室を14名で共有して利用する会員制リゾートホテル。共有制の会員権はスタンダード 30~50m² で300万~500万円。1室1泊の利用料金 9,570円~13,750円とか。
この先、旧旅館跡地がどうなるのか分からないが、なんとも味わい無い施設に取り込まれちまったものだ。モダンよりもレトロ感覚の方が好きな私にとっては残念至極なり。
今回の、私の箱根旅行は強羅からケーブルカ~とロープウエーで大涌谷から桃源台港、そして芦ノ湖を遊覧船で元箱根港まで横断し箱根を一周した。塔ノ沢での宿泊は国指定登録有形文化財の「塔ノ沢一の湯本館」。そのキャッチフレーズは <木造4層建て数寄屋造りの旅情あふれる老舗の箱根温泉の旅館> エレベーター無し・バス・トイレ別といった、かつての共済組合の公共の宿レベルの懐かしの迷旅館だった。
それについてはまた別の機会に…
おわり