うちの墓は私が生まれた愛知の山間部にある。
お寺さんの墓地だから維持管理のため年に2度護持会費を払ってる。
近頃はあまり帰れないから、春・お盆・暮れの3回、地元のシルバー人材センターに墓の草取りを依頼している。支払いはネット振込。
ということで、お寺さんからお便りが年に2回届くのだが、そこに書かれてる記事が興味深かったので転載しました。
内容は基本的には「禅」なのだが、あまりらしく無い。
記事の中で、私が興味を持ったのは以下の部分です。
<大切なのは、自分を信じて毎日を丁寧に、今を一生懸命に生きること。行いを調(ととの)えることによって心も自ずと調う、これが禅の修行です。>
私はかつて謝恩会の際だったかな。こんなことを言いました
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学生がインタビューしに来たことがあったんです。
「先生がいちばん学生に望むむことは何ですか?」
「う~ん、そうだな、美しくあることかな。」
そう応えたら学生が「プっ」と吹き出して言った。
「… 何ですか…それは。」
「あのね、皆さんはここで美術を学んでるわけでしょ。でもね、汚~い格好で学食へ行ったりしてる。作品だけ美くしくするんじゃだめでしょ~。美術を学ぶってことは、自分自身の生き方を美しくすることだと思うんだよね。卒業後はいかにしたら美しく生きられるのかを実践してほしいんですよ。」
以下の宮本覚道師の言葉の中の「行いを調(ととの)える」ことによって心も自ずと調う」
は、私が言った内容と同じ意味だと思います。
いわば共に「禅の修行」みたいなものってことなんです。
ま、そんなことを思ったものだから、紹介しますね。
「だから、禅は、おもしろい」
<曹洞宗 宮本覚道師>
昨年十一月に行われた秋期講座で、曹洞宗・宮本党道師に御講演をいただきました。ご白身のご経験をもとに、禅の教えについて分かりやすくお話をして下さいました。
今回は許可をいただき、御講演の一部を掲載させていただきます。
はじめに
私は岐阜県関市にあります曹洞宗、龍泰寺の第52代住職をしております。
龍泰寺の境内には、あかつき幼稚園という幼稚園がありまして、そちらの園長もしております。
また、パワーリフティングという競技を行っております。最高成績は世界2位です。
一位になれなかったのが私らしいなと思っておりますが、挑戦できただけで満足です。
本日、僧侶としてお伝えしたいととは「禅の素晴らしさ」についてです。
この禅には、向分で自分を幸せにする、自己肯定感を高める教えが満載です。本当に白分で「今、幸せだな」と思えるのも、私が色々な事に挑戦をし続けられるのも、全て禅のおかげなのです。
幸せになるには
さて、皆様に質問です。「人生の目的」とは何でしょうか。人生の目的を、皆さんは考えたことがありますか。これは、どなたも一緒ではないかなと思います。そう、人生の目的は幸せになることです。幸せになろうと思って生きていない方は、いらっしゃらないのではないでしょうか。
アドラー心理学によると「幸せな人は、自分のことが好きである」という研究結果が出ています。つまり、幸せになるには自分のことを好きになれれば良いのです。
では、自分のことを好きになるにはどうすればいいのでしょうか。実は「禅の教え」にそのヒントがあるのです。今からするお話は、私の座禅から気づかされた、自分のことが好きになる禅の教えについてです。
ある園児からの言葉
十六年ほど前に、私は父から引き継いで幼稚園の園長になりました。まだまだ若いですし、子育てもしたことがなくて不安でいっぱいでしたが、幼児教育についてはそれなりに学んで、なんとかこなしておりました。
しかし、事件が起きてしまったのです。それは私が園長になって初めて迎えた卒園式の時のことでした。私は園児の前で挨拶をしました。「みんな大きな夢を持って頑張ってね。頑張れば夢は叶うよ。先生、応媛しているからね」と言って送り出したのです。
その後、ある園児から「先生、夢って本当に叶うの?」と尋ねられました。思わずドキッとしました。正直に言います。私にとって、お寺の住職になることも、幼稚園の園長になることも使命感であって夢ではありませんでした。
つまり、私は夢を叶えたことがない人間なのです。そんな私がなんとか、その場で絞り出した答えはこうでした。「頑張れば夢は叶う」シドニーオリンピックで金メダルを取った高精尚子選手が肩っていたよと。
すると質問した園児は「ふーん」と言いながら、私を寂しそうに見上げるのです。
私は、その子から「先生、夢を叶えたことがないのでしょう。叶えたことがないのに、よくそんなことが言えるよね。先生は嘘つきなの?」と言われているような気がしました。きれいごとだけじゃ通用しないと思わされた瞬間でした。そこで「このままではダメだ」と思って、私は夢を持つことにしたのです。
では、どんな夢が良いか。立派なお坊さんになる、かっこいい園長になる、色々考えましたが、幼稚園児の子供たちに「この人、すごいな」と思ってもらえるには、足が速いとか、力持ちとか、そういう分かりゃすいものが良いだろう、と思いました。たまたま私は体を鍛えることが好きだったので、園児の前でこんな宣言をしてしまうのです。
「みんな聞いて、先生は日本一の力持ちになるからね」と。勢いで言って、「しまった」と思いました。
そう宣言した手前、まずは大会に出てみないといけません。そこで実際に大会に出てみますと、私より強い選手はいくらでもいました。当然です。結果が出ない日々が続きました。すると「あの和尚、休ばっかり鍛えて、本当にお寺のことをやっているのか」、「園長先生、あんなことばっかりやって大丈夫?子供のこと本当に見ているの?」、「夢を持つことも大切だけど、現実もしっかり見なさいよ」というような言葉が耳に入ってくるようになりました。
実際に、お寺の仕事や幼稚園の仕事が忙しくなって、色々な事に手が回らなくなってしまった時もありました。「確かに皆の言うとおりかな。自分は人生の選択肢を間違えてしまったかな」と思うよ
うにもなりました。
しかし、ここで諦めたら何も変わりません。そこで、「とにかく自分を信じよう」と覚悟を決めたのです。自分の中で何かが動いたのです。自宅でもトレーニングができるように、器具を全部揃えました。
毎朝早く起きて、仕事が始まる前に一生懸命トレーニングしました。強い選手になりふり構わず教えてもらいました。やれることは全てやりました。
挫折から気づかされた禅の教え
そうして毎日、自分を信じて、ただひたすらに自らがやるべき事を続けていましたら、いつの間にか日本チャンピオンになっていたのです。日本チャンピオンになると、一転してみんなから褒めてもらうようになりました。多くの方に注目もされるようになり、とても嬉しかったことを党えています。
しかしながら、それよりももっと誇りに思ったことがあるのです。それは「あんなに大変で苦しかったけれど、また周りの人に色々なことを言われて辛かったけれど、どんな状況にあろうとも自分を信じて一歩を踏み出して、それを最後までやり抜いた」ということです。
日本チャンピオンになって思い出すことは、楽しかったことではないのです。「仏教とパワーリフティングは何の関係もない」と馬鹿にされたこととか、「生きていくのに必要のない筋肉を鍛えてご苦労さん」などと嫌味を言われたこととか。30過ぎの大人が、悔しくて泣きながら一生懸命トレーニングしたこととか、思い出すことはそんなことばかりなのです。でも、「そんな状況にも関わらず、自分を信じて一歩を踏み出し続けることが出来たんだ」、その事実が一番嬉しかったのです。
正直、日本チャンピオンになると何か自分の中で変わるかな、見える景色が変わるかな、そう期待していました。しかし何も変わりませんでした。そこで気づきました。結果ではなく、プロセスが大切なのだ、と。さらに突き詰めれば、そのプロセスを歩み始めるために、「自分を信じて踏み出した最初の一歩が何よりも大切だったのだ」ということに気づかされたのです。
また新しい発見もありました。それは自分自身がいつの間にか、「周りからの評価が全く気にならない自分になっていた」ということです。自分の人生を自分らしく生きていることを通じて、心が清々しくなって、そんな自分のことを好きになっていたのです。
「廓然無聖(かくねんむしよう)」という禅語があります。これは達磨大師のお言葉で「廓然=仏の世界は広々として一点の曇りなく、からりとしております。そこには素晴らしいとか素晴らしくないとか、そんな区別はありません」という意味です。大切なのは、自分を信じて毎日を丁寧に、今を一生懸命に生きること。行いを調(ととの)えることによって心も自ずと調う、これが禅の修行である。こういったお示しです。自分を信じて一歩を踏み出し、今を一生懸命に生きていると、心から雑念がなくなって、自ずと心が綺麗になる。このことを教えてくれているのです。
自分の「仏性」を信じる
では、ここで言う自分を信じる、というのは一体自分の何を信じると言うのでしょうか。それは自分の「仏性」を信じることです。仏性とは、自分の中の仏様の心です。仏様の心は皆様の中に必ずあります。
「明珠在掌(みょうじゅたなどころにあり)」という禅語があります。これは大切なものはすでに手の中にあるというお示しです。私たちの心の中には、既に仏様が住んでいます。「本当に私にも住んでいるの?」と疑問に思うかもしれませんけれども、必ずあります。それは素直で正直な仏様の心です。ありがとうと思ったら、ありがとうと伝える。ごめんなさいと思ったら、ごめんなさいと伝える。この素直な心。そして、人にどう思われるかではなく、自分がどうありたいか、できるかできないかではなく、自分がどうしたいか。この正直な心。この素直で正直な心が仏様の心です。
この素直で正直な仏様の心、すなわち仏性を信じて行動することによって、自分の人生を自分らしく生きていける。「自分の人生の主人公は自分である」という自覚が芽生えて、向分の人生を主体的に生きているという実感がわいてきます。
私が「自分を信じよう、と覚悟を決めた時に、何かが動いた」と先ほど申し上げました。その「何か」とは、仏性が動いたのです。自分の命、そのものの輝きこそが仏性なのです。白分の仏性を信じて一歩を踏み出して、今ここを生きていく。そうして感じられる「自分らしく生きている」という実感こそ、幸せそのものなのです。この生き方を自分で称えることができた時に、おのずと自分のことを好きになっている。「廓然無聖」と達磨さんが言われたことは、このことだったのかなと、私は今でも信じています。