02/27 三菱みなとみらい技術館 (2) おもひで

その他

この機会に「みなとみらいの埋め立て・開発」、それに関わる思い出について振り返ってみようと思います。

私が新卒で、最初に神奈川県の高校に勤務していたのが1978~1981(S53 ~)の3年間。
当時、私が知ってた「あのあたり」は、まだ埋め立てすら始まっていなかった。
横浜美術館の開館は、私が横浜をはなれて7年も経った1989年11月(S64)だった。

私の思い出

その後、横浜の知人、MoRiさんからの電話で「あのあたり」に美術館ができたことを知った。
「あそこは ナ~ 今は【みなとみらい】って言うんだゼ~」
「ホ~、そうかい。」

それからさらに10年ほど後、私は子どものための造形教育施設の考察」という調査報告書を書いた。
「子どものための造形教育施設の考察
http://kusiwa.exp.jp/–study/ronbun/ronbunpdf/08.pdf

<内容概要:❶おかざき世界子ども美術博物館(愛知)➋こどもの城(東京) ❸子どものアトリエ(横浜)の聞き取り調査
論考の目的は、学校外「子供のための教育施設」の状況確認。社会教育としての新たな3施設の例を取り上げて検討を加えた。1997年2月(北海道教育大学紀要(第1部C)第47巻第2号、387~398頁)(1997年)>
は、横浜美術館の学芸員たしか三ツ山さんだったかな。いろいろ話を伺って資料も頂いて創作・体験型ミュージアムのベースを理解した。

この調査報告書の作成目的は、当時の勤務地(釧路)に公立美術館:新設の動きがあり、その運営方針への意見表明だった。私はこの内容を持って、当時の地元推進委員長N氏(故人)に訴えた。

「ド田舎に、フツ~の美術館を作ったって住民は近寄らない。だから子どもを重視したワークショップメインの運営にしたらどうか? 子供は10年たてば大人になる。そこからが市民のための美術館になる。フツーの学芸員じゃなくて、ワークショップが得意な人材を学芸員に採用してほしい」

だが、「そんなの、お前が勝手に作れよ!」って、相手にされなかった。

N氏は、まだ若いけれど地元の名士で、私が出品していた同じ公募展の彫刻会員で、親しくしてた人だったけれど、めずらしく怒ってた。「地元に、数年しかいないのに勝手に口出すなよ」。外から来た人間が何を言うかってことだった。

それから後、地元の小・中の図工美術教員十人ほどに集まってもらい、その趣旨を訴えた。
「教員が動かなきゃ、なにも始まらないよ…」
見本のワークショップやってみようよ」って訴えた。
でも、だれも動かなかった。
「…やっぱり始めはフツーの美術館でなきゃ~って、思います…」
「何を言っても無駄だな」って、あきらめた。

でもね…その公立美術館は、スタート時点こそ、ふつーの展示スタイルだったけど
数年後に、急に方針転換して、いろんな「ワークショップ」企画を取り入れるようになった。

私は、調査して、論文にして、あちこち訴えて、でもダメだったけど、結局そうなった。
実際には、私は何も役立ってなかっただろうけど
「私の見通しは間違っていなかった!」
そう思えて、嬉しかった。

K美術館 最近のWS

以下はその美術館での、最近のワークショップ類のデータです
https://www.kushiro-artmu.jp/

思い出にいっちまった、すみません

以下、あすに続きます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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