1003 ブリンカーを外して、原美術館を観た (2)

東京

「原邸」から「原美術館」へ

原美術館、御殿山トラストシティ、品川教会 にわたる一帯の広大な敷地は、明治25年(1892年)以来、代々、原家の大邸宅があった土地だった。「原美術館」の建物は、昭和13年(1938年)に建設されたのだが。この建物が美術館としてスタートするまでには数奇な運命があった。

昭和20年の敗戦後には進駐軍(GHQ)に接収され米軍将校の宿舎として使用された。6年後に返還されたのだがそれ以後、昭和 40年代前半まで外務省公館、フィリピン大使館、セイロン大使館に貸し与えられた。さらにその後は10年間ほど空き家の期間があり、昭和54年(1979年)になってから原美術館として活用されることになった。夫妻がこの建物で暮らした期間は、昭和13年から終戦の年までのほんの数年間だけだったことになる。

初代の原家当主・原六郎は、幕末の志士であり明治・大正期の大実業家

初代原家当主・原六郎は、天保13年(1842年)兵庫県朝来(あさご)市の大地主・進藤家の六男 として生まれた。進藤家は12世紀前半から現在まで27代続く豪農。室町時代に建てられたとされる六郎の生家 は現在「佐中の千年家」と呼ばれている。

彼は、幕末の攘夷運動に加担し21歳の頃に原六郎と改名した。 江戸では坂本龍馬とも交流。高杉晋作とともに討幕運動 に参加。戊辰戦争では官軍の隊長として関東、東北を歴戦。最後は「五稜郭の戦い」に官軍として従軍。
明治4年(1871年)官費留学生として渡米してイェール大学に留学。さらに私費で英国キングスカレッジに留学。両大学で、経済学、金融学、銀行学、社会学などを修め、明治10年(1877年)に帰国。

その後は、明治11年に第百国立銀行を設立し頭取、さらに東京貯蔵銀行頭取に就任。そして傾きかけた横浜正金銀行の経営を再建させた手腕によって経済界に頭角を現した。その後は、東武鉄道、総武鉄道、九州鉄道、北海道鉄道などの鉄道事業、その他、東洋汽船、東京電燈(後に東京電力へ)、帝国ホテル、猪苗代水力発電などなど、あらゆる事業に貢献 し、日本経済黎明期 の発展 をけん引。渋沢栄一、安田善次郎、大倉喜八郎、古河市兵衛 とともに「日本財界の5人男」 と称される。 まあ、なんという人生! ひとりで10人分を生きたような人だった。

二代目・原邦造もまた、大正・昭和期の大実業家

六郎から家督を相続した原邦造は、満州鉄道勤務時代に六郎に見初められ養子となった。京都大学経済学部を首席で卒業 。後の第一生命、三菱銀行、日本航空輸送、三井銀行、現:東京メトロ、東武鉄道、電源開発、日本航空(JAL)東京ガスなど、数多くの会社の社長、会長、取締役等を歴任。 二代目・原邦造もまた、大正・昭和期の大実業家だった。
「原家」は明治から昭和にかけ、 二代に渡って 日本の経済界を築き上げてきた名家だったわけだ。
原美術館の建物はこの邦造の代になって建てられた。 この館を建てた当時、御殿山の邸宅には養父の原六郎が建てた広大な和風の建物があった。だがモダンでコンパクトな住居を望んだ夫人(原六郎の娘)の意向に沿って、モダニズムスタイルの新館を増築した。これが現在の原美術館である。

四代目・原俊夫

三代目をはさみ、四代目の原俊夫氏になってから「原美術館」が誕生した。 原俊夫氏 に関しては Wikipedia には以下のような短い記述 だけがある。

< 学習院大学卒業後、アメリカに留学し美学美術史博物館経営論を学ぶ。 父から引継いだ日本土地山林などの企業経営をする傍ら、1979年(昭和54年)、原邦造の私邸を開放し、当時日本では珍しかった現代美術専門の美術館である原美術館を開館し、後に群馬県の伊香保温泉にある伊香保グリーン牧場内に原美術館別館としてハラミュージーアムアークも開館した。 > 

彼に関してはまだ調べきれないからそのうちに… 

参考WEB

渡辺仁の建築
https://www.biz-lixil.com/column/pic-archive/inaxreport/IR183/IR183_p04-16.pdf

アートオタクな天使のスパルタ鑑賞塾 ~原美術館編~ https://girlsartalk.com/feature/28211.html

とりあえず、おわり

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