九州旅行の際、レンタカーで探訪した草木に埋もれたあの一帯に、全国から参集した150にもわたる大名の布陣があるのを知り、驚いた。「唐入り」の期間は、多くの大名が布陣し日本の政治経済の中心となったなんて今でも信じられない。
私は、教科のなかでは日本史が一番好きだった。でも、秀吉の朝鮮出兵と名護屋城に関してはわずかな知識しかなかった。
「朝鮮出兵」は「文禄・慶長の役」「朝鮮征伐」とも呼ばれ、太閤秀吉の死をもって日本軍の撤退で終結した。その程度の知識しかなかった。なぜ私は、こんな壮大な史実が 北九州に あったことを知らなかったのだろう? 旅行から戻って少し調べてみた。
秀吉は第一次朝鮮出兵を「唐入り」と呼んだ。唐へ渡る津(港)というのが地名の由来。唐津の地名も朝鮮出兵に関連づけられそうだ。
超人気ベストセラー、伊沢元彦『逆説の日本史11ー朝鮮出兵と秀吉の謎ー』第五章(太閤の外征編ー朝鮮征伐にみる日本人の贖罪感 ) を読んだ。その解説により、皮相的な受験の日本史では得られない、史実をめぐる多様な背景がわかってきた。
秀吉の 第一次 出兵 (文禄) 理由は、領土拡張説・勘合貿易説・明侵攻による東アジア新秩序説など、諸説あるが実態はいまだ「不明」だとか。第二次出兵(慶長)は誤解にもとづく朝鮮報復戦。多くの非戦闘員の多数犠牲者を出した。文禄の役と慶長の役はその目的がまったく違ったものだった。
ところで、佐賀県観光情報ポータルサイト「あそぼーさが」の「名護屋城博物館に関する記述をみると、韓国に対する贖罪意識がつよく伺える。
<名護屋城跡に隣接する名護屋城博物館は、文禄・慶長の役を侵略戦争と位置づけ、その反省のうえの長い交流を示す約220点の資料を展示し、今後の交流・友好の推進の観点に立って、「日本列島と朝鮮半島との交流史」をテーマに… を目指しています >
しかし伊沢氏は、朝鮮出兵を悪と一方的にみなす歴史観への疑問を呈している。
<前近代における「侵略」についての常識とは、実は現代とはまったく反対なのだ。異民族を征服する者ーこれこそ前近代における英雄の条件である。今と昔は社会の仕組みも前提条件も違う。国際紛争を解決する手段は原則として戦争しかなく、弱肉強食の世界だからこそ、侵略しようが何をしようが「勝てば官軍」なのである。これが世界史の法則なのである>
彼は、 現在の常識を尺度にして歴史上の事績を評価してはならないと説く。現在の日韓中における加害・被害の自国中心主義の考え方も、広く歴史的・世界史的観点にたてば別の解釈となる。
普段ならば全く考えもしないような事象に関して、立ち止まり考える切っかけが与えられた。旅行するってのは、そういうものかも知れない。